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木曜日の演奏会で、シベリウスのカレリアを聴いていて、
「わたしは足の親指だ」という言葉、感覚がでてきた。



日本人というひとりの人間がいるとして、
わたしたちひとりひとりは、その器官のひとつひとつなのだというイメージ


東北が、腕や内臓だとする。
いま、そこが大怪我・大病を患ってしまったのだ。

当然、影響は身体の到るところにあらわれる。



お金は、血液のようなものかもしれない。

いま財布に入っているお金。
貯金してあるお金。
これが「わたしのもの」であるわけがない、と思った。


血液を痛みのあるところへ送ること。
今回のことだけでなく、血液を体中に循環させていくこと。




演奏会は素晴らしかった。
そこにひとりひとりの自己主張はなかった。
ひとりよがりな自己表現もなかった。

ピアニストのケリーヨストが、「演奏では、自分をできるだけ消したい」というようなことを言っていて、
それを思い出した。
音楽はきっと、本物の音楽はきっと、徹底的に寄り添ってくれる。


母校のスクールモットーは、mastery for service、奉仕のための練達で、
そのメッセージを体験するような演奏会だった。


日本人の一部として、わたしが練達するものは何か
青年期の悩みではなく、単純にそんな思いでいっぱいになった。


必ず、役割がある